【孫のあとがき】朝鮮のおじいさんへ

祖母の詩

随想四季

表紙にそう書かれた日記帳がある。それは母から受け継いだ。私が知らない祖母の胸の内が綴られ重なった、朱色の切ない日記帳。

私がこのブログを書こうと思ったきっかけになった祖母。晩年はご陽気な認知症となり、山谷あれど、その魂の最期は穏やかなものだった。

祖母がこの世から去って二十年が経った。そしてこの朝鮮のおじいさんとの出来事から、八十年が経過しているはず。そんなタイミングでこの朱色の日記帳を見返した。

祖母の胸の内を残したい。そう思って始めたviva!在宅介護というブログ。私という人間がこの世に存在しているのは、この朝鮮のおじいさんがいたお陰。祖母から母に、そして母の人生に父が加わり私がいる。

この祖母の思いから、私のブログと人生の後半戦が始まる。

私は自分で家族を作らなかったので、自分のルーツも、愛おしい祖母の事も、大好きな父と母との大切な日々も、次の誰かに繋げない。だから独り言でデジタルの世界に記録を残す。

大河ドラマにも朝ドラにもならない我が家の歴史だけれど、私にとっては大事な大事な記憶の宝物。しっかりとそっと、私の背中を支えてくれる心強い時の積み重ね。

頭の七才、母である

この朝鮮のおじいさんへの中に登場する「七才の子」が私の母だ。私の母親を頭に、四才・三才・一才と続く四人の子を連れて、祖父母は大陸から故郷日本へ引き揚げてきたそうだ。

令和七年現在。その当時三才だった子と、終戦後に生まれてきた叔父しか存命していない。まだまだ元気でいてほしい。遠く離れて暮らす叔母と叔父にそう願う。

小さな子を四人全員連れて、故郷へ帰りついたことへの嬉しさと大変さを私が初めて知ったのは、祖母と母と叔母の茶飲み話しに紛れて聞いていた夏休みのある日。その時私は小学校高学年で、ただ大人たちのやり取りを「ふーん」と聞いていた。

のちに私の母が「絶対に両親と同居して面倒を見る」という気持ちの出発点。本当に同居して初志貫徹した。素晴らしい母だった。そして、その母の気持ちに反対することなくニコニコしながら付き合った父も、また凄い父だ。

地元のラジオ局で読まれた祖母の詩

この朝鮮のおじいさんへとあてた詩は、昭和三十四年の二月にラジオ放送(地方局)で読まれたと聞いている。おじいさんの連絡先をなくしてしまった祖母の、精いっぱいの気持ちの伝え方だったのだろう。ばあちゃん、きっとその時伝わっていたと思いますよ。

この時、家族全員ラジオの前に集められたと母が言っていた。

朝鮮のおじいさんへ

あなたにたくさんの感謝をしていた祖母も、あなたが引いた荷車に乗せられて歌を歌っていた七才の女の子も、どちらも天国で暮らしています。

あなたに助けられてから八十年間のその途中、当時七才だった女の子は私の母となり、私にたくさんの事を託して去年この世を去りました。

今は私がみなの気持ちに支えられて生きています。おじいさん、もちろんあなたもそのひとりです。

朝鮮のおじいさんへ

私の家族を助けてくれてありがとうございました。祖母があなたに手紙を出せなかったことお許しください。あなたに渡された連絡先を失くしていなければ、祖母は絶対に便りを出していたはずです。でも今はそんな昔の事はどうでもよくて。きっとコスモス咲き乱れるその場所で、直接言葉を交わしている事でしょう。

いつか私がそちらへ行った時、私もあなたと話がしてみたいです。でもまだそれはもう少し先の事。

まだしばらく、父とふたりで暮らします。

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