桃の花|若き日の祖母が紡いだ愛ある言葉と胸の内側

祖母の詩

私のばあちゃんにも幼い頃は当然あって
でもお握りを大切に両手に乗せている
その少女は知らない誰か
それでもそれでも愛おしい
幼い黒髪のばあちゃんの
いつだかわからないけど
楽しかった日の記憶

桃の花

朽ちかけたお寺の縁側に腰かけて
大きなお握りを両手に乗せて
ほうばっているのは幼い日の私
甘い金時豆が沢山まじっていた

まるで桃色の宝物ようなお握りに思えた
其の日は何の日だったのだらうか
お寺の接待日なのか
誰かの供養日だつたのか
それにしても人一人居ないのが不思議だ

寺の庭には桃の花が匂っていて
柔らかい日ざしが
ふんわりと私を包んでいた

おいしかったお握り
うす桃色のお握りとお寺の桃の花は
私の一番遠い遠い日の思い出
場末の活動館の古いフイルムのように
切れてつづいて
ぼうっとかすんでとらえようがない

ひょっとしたら
幼い頃みた夢ではなかったのかと思う

夢ではなかった
戦い敗れて引揚げた故郷に
私が生まれたという家があった
家の前にそれらしいお寺があった
戦災をまぬがれたという立派なお寺で
子供達がかくれんぼをしていた

むかし桃の木はあったのか無かったのか
あるもよし
なくもよし
聞くのはよそう
桃の花は
今も私の心の隅で
匂いつづけているのだから・・・

  

 

孫のあとがき

小さい頃、私は豆という豆が大嫌いだった。今は豆類全般大好きな中年に仕上がっているが、それでも30代くらいまで、金時豆だけは何となく避けていた。

祖母は頻繁に金時豆を煮ていた。たぶん大好きだったのだろう。それと歯のない自分への大事な栄養分として、やわらかな豆を煮ていたのだろう。

金時豆を美味しいと感じられるようになった時、祖母はもうこの世にいなかった。この「桃の花」という詩をみつけて、ああ嫌いでも一度食べておけばよかったなあと、少しの後悔が私に浮かんだ。

母が煮た金時豆も口にすることはなかった。一度、社交辞令的に口に含んでみたけれど、なんだかぼってりとしてヘンに大きく、もそもそとした感じの印象で口にしたくなかった。美味しくないわけではなかったが、食感が嫌で食べ進められない金時豆だった。

今はもう食べることのできない祖母と母の金時豆。そして自己流で作ることも叶わない。豆を水で戻して煮るという作業は、今の私にはとてもじゃないけどできない。

家の片付け、父の世話。できない事が積み重なり、日々進めど、後ろ振り返れば終わらせられなかった毎日が山積みになって朽ちている。

もう過去に戻ることはできない。私は自分の未来に元気が戻ることを期待して、金時豆を炊ける日が来るのを楽しみに毎日生きる。そして祖母が幼いころに頬張った、薄桃色の金時豆のおにぎりを作って仏前にお供えしたいと夢をみる。

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