【孫のあとがき】桃のつぼみがふくらむ頃

祖母の詩

  

 

曾祖母には何度か会った事がある。この人が私のばあちゃんのお母さん?本当に?と何度も思った記憶がある。ひいばあちゃんは豪快。私のばあちゃんはやわらか。そんなふたりが親子だなんて不思議だと、幼い頃にそう思った。

「桃のつぼみがふくらむ頃」に登場する「孫」は私と姉だけれど、アラレの事はまったく記憶にない。覚えのない自分の過去に、ああそうなんだと読み進むのみ。

曾祖母が文字を書くのに難儀していた事は、私の母が仏壇の世話をする役目を祖母から引き継いだ時に知った。祖母が大事にとっておいた手紙を整理していた時、曾祖母が祖母に宛てた手紙を見つけた。

祖母が書き残していた通り、確かになぞなぞのような文章だった。でもそこにはたくさんの愛が溢れていた。文字の書き方大きさはどうでもよい。文字を覚えたての子供が書くような反対向きの文字であっても問題ない。

そして手紙は話し言葉で書かれていた。祖母の故郷の方言だ。それは祖母にしか伝わらない手紙だ。ひ孫の私には「読むんじゃないぞ」という事だろう。難解の愛溢れる手紙。祖母から母へ、そして私に引き継がれた私の財産だ。

私のひいばあちゃんはものすごくネイティブな方言で話す人で、その喋りは小さな子供にも容赦なかった。ひいばあちゃんと違う土地に住んでいたひ孫は、それはもう何が何だか言われている事がまったくわからず・・

ひいばあちゃんが喋った後、こそっと母に「いまひいばあちゃんなんていった?」と聞いていた。母はいつも笑いながら通訳してくれた。たまに「あれはお母さんでも無理だわー」と笑っていた。

みんなみんな懐かしい過去になった。

親はいくつになっても子を愛おしく想い、子もまたいくつになろうとて親の前では幼子になる。その手紙からそれを見つけた。今頃は私の頭の上の青い空で、私の母も加わり楽しく話をしているんだろうなと、遠くて高い手の届かない空をうらやましく見上げる。

60歳がまた少し近づいてきた誕生月を過ぎても、まだ幼子のように母を探す。

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