祖父の言葉

介護日誌

自制力を失った人間は自己本位の野獣に近い精神状態になる。

己の希望が通らぬと泣きわめく。

自分は必要のない人間でしょう。死にます。といって、何時迄も座っておる。

死にたくて死ぬといっているのではない。いいたいから言っておるだけだ。

天の時、地の理も、人の和に如かず。特に私を改めて、社会生活の基礎としてきた(今も尚、その精神は緩んでいない)

日本では右のような人間が現れると、とたんに小さくは家庭、会社、官庁、ねじれ現象が起こる。

本人の意志によって生じたものではなく、病の為にであるから、何とも悲しいことである。

とんとこや、お母さんお父さんに大変辛い想いをさしていることもよく知っておる。

辛抱して、どうかいたわってやってくれ。頼む。

ばあちゃんも、とんとこがやさしくしてくれるからうれしい、とよく口にしておる。じいちゃんからも心からお礼をいう。

何かお礼をしたいとは思っているけれど、こういうことはタイミングがあってなかなかむつかしい。

同封の金子は少しだが油代に使ってくれ。

今後ともばあちゃんのこと、くれぐれもよろしく頼みます。

塗薬を体全体に塗りまくったので、手がふるえてどうにもならん。判読して下さい。

草々

とんとこちゃんに

祖父

忘れていた祖父から貰った手紙

祖父からの手紙を文字に起こしてみた。受け取った当時、たぶん私のことだから「読めねー」と全文をかみ砕く努力をせず、祖父の必死の気持ちもくみ取らず、同封されていた金子にホクホクとしていたと考えられる。

ただそのホクホクとしたであろう金子の額も、この手紙の事も、当時の家の中の様子も、祖父がこの時どんな具合だったのかも、全くと言っていいほど記憶にない。

数十年後に見つけた私宛の手紙には、病に勝てず、それでも何とか最後の力を振り絞り、孫の私に必死の思いを伝えようとする祖父の姿が文字となって滲んでいた。

「判読して下さい」

このひと言を添えなければならなかった「崩すつもりはないのに思いに反して崩れてしまう文字」が、自分の人生に腹をくくった祖父の心の輪郭に見えた。

現在、祖母と同じく認知症になった父と一緒に居る私の心には、「自制力を失った人間は自己本位の野獣に近い精神状態になる」という一文は重い。

しかし時が経ち、少しばかりの経験と知識が備わった私の目が読み解いた、祖父が孫に伝えたておきたかった思いの部分は心強く感じた。

祖父の孫である事と、認知症になった祖母のおかげで、私は今をストンと腑に落とすことができ、多少辛いと思いながらも、あまり振り返らず前に進む事ができている。

祖父の覚悟

まだ誰も祖母が認知症だと思っていなかった時分に、祖父は「自己本位の野獣に近い精神状態」になってしまった祖母に気がついていた。けれど、私達には何も言ってこなかった。

母はある夜、祖母が祖父にまたがり首を絞めているところを目撃した。

私は夜中、寝ている祖父の枕元で怨念抱えた顔してじっと座っていた祖母を目撃した。

それでも祖父は祖母を疎ましく思ったり、邪険に扱ったりする事もなかった。以前と変わりなく祖母に接していた。だから祖母は、私と母に見えない所で、祖父に対してだけ怨みの塊を投げつけていた。

認知症のせいで、何度もじいちゃんに同じ事を問いかける。自分の気持ちを押し殺さずに放出しまくる。

嫁は三歩下がって歩いてこい精神だったじいちゃん。耳が遠かったじいちゃん。色んな要素が相まって、ばあちゃんの問いには一回しか答えないし、悪気なく一回しか聞こえなかった場合もあった。

だから首を絞められた。時に夜、大きな声で言い合いをしていた事もあった。

それでも祖父は生活を変えようとはしなかった。寝食ともに以前のまま。そうやって普段通りの生活の空間で祖母の様子が変わっていく最中、祖父に癌が見つかった。

逆転する人生、そして全回収

祖父の体調が芳しくなくなってきたと同時に、祖母の認知症が花開いた。

その人生、ずっと三歩下がって歩かされていた祖母が、身動き取りづらい身体になった夫の横に立ち、人目をはばかることなく夫に愛を叫ぶ事が出来る毎日を手に入れた。

母の「いいのよ。ずっとできなかったんだから」のひと言で、祖母は自由奔放な乙女になることができた。

母は祖母の行動を制することはしなかった。一番近くで祖母の我慢を見てきた人だ。止めるべきではないと思ったのだろう。

じいちゃんが肩で息しながら人生のゴールに向かっている途中、ばあちゃんはハートマークをいっぱい放ちながら、じいちゃんの体調なんぞまったく気にせず、この世で一番愛しい人に絡みまくっていた。

その一時は、祖父側からみればハードボイルドとホラー映画が合体したような内容だったと思うが、祖母の側からすると、ラブロマンスオンリーの日々だ。

もう本当に神様がこの世に存在してじいちゃんに天罰を下し、ばあちゃんに人生のご褒美をこれでもかと与えているようにしか見えなかった。

私は最大級のハートフルラブロマンスコメディを見た。

全米中のじいちゃんが泣き、全米中の私が笑った。そんな時間だった。

じいちゃんへ

幾つの時に貰った手紙と金子だったのか思い出せない孫は、今年57歳になります。そしてアルツハイマー型認知症と診断された父と暮らしています。

でもまだ父は「自己本位の野獣に近い精神状態」の人には至っていません。貴方にハートマークをバンバンに飛ばしていた貴方の伴侶と似ています。

先立たれた自分の伴侶を、もう私の前で「おかあさん」と言うことはせず、「〇〇ちゃん」と名前で呼んでいます。

おかあさんは貴方に似て「連れ合いは三歩下がってついてこい」の人だったから、今ようやく父はウキウキと嫁の隣りに並べているようです。なんかそんな気がします。

今日は「ちょっと早かったよなぁ…」と、先立たれた妻にポツリと呟きましたが、「あとみんなの分全部引き受けて、おとーさん100歳超すぞぉ!」とも言っておりました。

どうかその願いが元気で叶うよう、そちらから助けてやって下さいね。貴方の妻の排泄介助も、我先にと手伝っていた貴方の義理の息子です。

我が家の墓を作る際、誰に何も言うことなく、自分の家紋と貴方の家系の家紋を二つ並べて墓を建てた男です。

貴方の義理の息子は、元気で100歳になる資格のある人だと思います。

どうかよろしくお願いします。

あと、じいちゃんにお供えしているウイスキーは、私が車の運転をしなくていい人生に突入したら、貴方の代わりに一杯クイッと引っ掛けようと思っています。

お返事遅くなりました

ではまた

草々

じいちゃんに

祖父と祖母
じいちゃんとばあちゃん

  

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