随想 四季

祖母の詩

「随想 四季」は、祖母が使っていた日記帳の表紙に浮かぶ金色の文字。分厚く暖かい色味のその日記帳の中には、祖母が懸命に生きた証の断片が書き残されています。それは私のルーツの一部でもあります。

在りし日の祖母の人生と、その彼女の人生の途中を一緒に過ごした孫の目線で、懐かしい日々の出来事をこのブログに綴っていきたいと思います。

今回の詩は、戦火を逃れ、家族の無事と感謝の気持ちを伝えたかった祖母の、恩人へ宛てた手紙と思われる「詩」です。

※かな使いや漢字等は、当時祖母が書き残した文面に添って文字起こしをしています

朝鮮のおじいさんへ

終戦の年の秋、ふとした事で二ケ月ばかりお友達になった朝鮮のおじいさん。私は、あなたのお名前も住所も薄情な事にはお顔さえ、今は思い出す事が出来ないのです。

「無事に着いたらここに手紙を下さい」と言って渡してくれた紙切れを、引揚の途中で失くしてしまった私は、遂にあなたとの約束を果たすことが出来なくなりました。

十三年という時の流れが、あなたの面影を忘却の海へ押し流しても、優しくあたたかいあなたのお心は今も消えることなく、年毎に新たな記憶となって、私の胸をかなしくゆすぶるのです。

あの家も引揚げた、明日はこの家も引揚げるそうなと、顔を合せると引揚の話ばかりです。ぽつんぽつんと、灯がつかない家がふえて、落ちつかぬ侘しい日々を重ねていた或る日の事です。

「ごめんください。いもはいりませんか」という声に玄関に出てみると、六十才近いおじいさんが、何も持たずに立っています。

「いもはほしいのですけれど・・・」と首をかしげる私に、「私はじめて仲買をします。着物といもをかえます。着物、かしてください。明日、いも持ってきます」何だか心配でしたが、その人の上品な物腰や、素朴な言葉、柔和な瞳を信頼して、私はいい着物をあずけました。

「私の家、この山の向うです。一緒にゆきましよう」そういって指さした山陰の小道は草に埋もれ、コスモスの花が美しく咲き乱れていました。

翌日、おじいさんは約束通り、いもを持ってきました。こうして、私の着物は次々に食糧に変わり、家財道具は、二束三文ではありましたが貴重なお金となって、引揚の日が近づいてきました。

そんな或る日、「私、貴女のお陰で、少しばかり儲けました。心ばかりですが元気をつけて内地へ帰ってください」と言って、五百匁はあらうかと思われる牛肉のかたまりをぶらさげて来て、最後の掃除をしてくれました。風のない日でした。

ゴミを焼く煙は庭いっぱいに拡がり、白い朝鮮服のおじいさんは、しきりに目をこすっていた。「けむたいでしょう。少し休んだら・・・」私の声に振返ったおじいさんの目に、涙がたまっているのを見て、何だか胸がいっぱいになりました。

「奥さん、帰える時、どんなにして子供さん達つれてゆく?私に委せなさい」

「有難う。お願いします」

七才を頭に、四人の子供を連れて山を越えて四キロ以上歩くのは、思うだけでも大変なことです。私は心の中で手を合わせました。

愈々引揚の朝がきました。おじいさんが荷車をひいてやってきたのです。その時のうれしかったこと。一抹の不安はありましたが、身動きも出来ない程着せられた四人の子供と、超特大のリュックを乗せて、主人とわたしが後を押しました。荷車の上で、子供たちはうたを歌って大喜びです。

霧が深い肌寒い朝でしたので、おじいさんのわらじの素足はうす赤く、冷たそうでした。赤い素足とかじかんだしわだらけの手が、私には尊いものに思われました。

峠にさしかかると、これから待っているであらう苦労もふっとんで、私は思はず聲をあげました。

「まあ素的、素晴らしい!!」

霧の中に明けそめてゆく漢江の流れと鉄橋。濃く、淡く、山ひだをよせて、ひっそりと静まりかえっている遠い山々。それは一幅のすみ絵でした。おじいさんも汗を拭き乍ら見とれています。再び見る事が出来ない朝鮮の山や川に名残を惜しみ、駅へ向かいました。駅は引揚者の群れでごった返していました。

「出発迄、あと二時間ばかりあります。どうぞお帰りになって下さい」そう言ってもおじいさんはうなずくだけで、人波にもまれ、駅の片隅でじっと私達を見送っていました。発車のベルが鳴りひびくと、列車は徐々に動き出し、おじいさんの姿は見えなくなりました。「きっとお便り差し上げます」と、心に誓いました。

朝鮮のおじいさん、お元気でいらっしゃいますか?

あの頃、二十九才だった私は、何時のまにか白髪が目立つ年になりました。ひょっとしたら、あなたはあのコスモス花咲く山の土になって、静かにねむっていらっしゃるかも知れません。あなたの荷車に乗ってうたを歌った子供達は、みんな大きくなりました。今日は、海は、ひどい雪です。この海があなたの村につづいているのです。

今一度、お逢いすることが出来たら・・・と、今日も遠いおじいさんを思い出しているのです。

孫のあとがき

「朝鮮のおじいさん」は、昭和34年に地元のラジオ局で読まれた(放送された)というエピソードを持った祖母の詩(今でいうところのエッセイでしょうか)です。ラジオ番組にリスナーとして自分に起こった出来事を寄稿したのか、それとも何かコンテスト的募集があり応募したのか、その部分は定かではありません。

私の母から聞いた話では「〇月〇日の〇時から(自分の書いたものが)ラジオ番組で読まれるから、家族みんなで聞きましょう」と、ラジオの前に家族全員集合させられた記憶のある「詩(エッセイ)」だという事です。

ラジオの電波に乗ったおかげで、祖母が抱え込んでいた朝鮮のおじいさんへ対する不義理を、少しだけ浄化してくれたのではないかと感じました。

朝鮮で暮らしていた祖母

この「朝鮮のおじいさん」の文中に書かれている七才の子が、私の母にあたります。京城で暮らしていたそうです。祖父はその時代、郵便局で働いていました。その当時の生活は裕福であったと母の記憶に残っています。誕生の記念に撮った写真に納まっている母の産着は、モノクロの古びた写真で確認しても、上等な布地で作られているのがわかります。

自分の生まれた国から離れても何一つ変わらない優しさで生きていた祖母。昭和20年という年を朝鮮で迎えたにもかかわらず、家族全員無事で日本に戻れたのは、この祖母の優しさが皆を助けてくれたのだと私は思います。

幸運にも家族全員で引揚げられた事

文中「7才を頭に~」の、引揚当時7才だった子が私の母(長女)です。

長女:昭和12年生まれ

二女:昭和15年生まれ

三女:昭和16年生まれ

長男:昭和18年生まれ

引揚途中で家族とはぐれた人もいる。祖国にたどり着く前に命を落とした人もいる。そんな戦争がもたらす悲劇が起きた年、祖母は心優しい人に巡り合い、家族全員で日本に引揚げることが出来ました。私の祖母を見つけてくれた朝鮮のおじいさん。そして私の家族を助けてくれた朝鮮のおじいさん。あなたのお陰で私もこの世に生まれ、祖母との楽しい時間を過ごすことが出来ました。ありがとう。

引揚げたその後

祖父母と四人の子供達は、朝鮮から船で山口県に渡り、そこから大分県へと向かったそうです。大分は祖母の母親が暮らす街。「とりあえず大分へ行けばなんとかなるかもしれない」と、ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車に揺られ、真っ暗な駅に降り立った家族。暗闇の中から窺えるその故郷は、祖母の記憶の中にあった懐かしい光景とは全く違う姿だったらしいと母が教えてくれました。

呆然と立ち尽くす祖母の目に入った、遠くから近寄ってくる「火の用心」の提灯の灯。生まれ故郷がどうなってしまったのか尋ねようとゆらゆら歩いてくる一団に声をかけたら、なんとそこに自分の母親がいたというすごい偶然の再会を経て、祖母の終戦後の大分暮らしが始まったそうです。

私から朝鮮のおじいさんへ

朝鮮のおじいさん。私の祖母の事、今もまだ覚えていてくれているでしょうか。祖母はあなたとの約束通り、日本に着いたら「無事に引揚げることが出来ました」と手紙を書こうと思っていました。あなたが荷車に乗せ見送った家族は、次の世代、そのまた次の世代へと助けてもらった命を繋ぎ、手を取り合いながら生きています。あなたのお陰で私達家族の人生は今もまだ続いております。

引揚の途中で祖母があなたから渡された紙きれを失くした事、どうかお許しください。あなたの事を綴った文字をラジオ番組へ寄稿したのは、どうにかあなたに感謝の気持ちを届けたくて起こした行動だと私は思っています。

自分の意見を人前に押し出したりするような祖母を、私は見た事がありません。自分が目立つような事を率先しておこなうような祖母の姿を、私は見た事がありません。そんな祖母がラジオ番組にあなたの事を寄せた事実があったことに、孫の私は驚きを隠せません。海の向こうにいるあなたに何とかして思いを伝えたかったのでしょうね。

そんな祖母の思いが遠いどこかにいるあなたへ届いていることを願います。

国境も争いも何もないどこかで、ふたりが再会しているはずと思いながら、孫の私は今日を終え、そして明日を始めることにします。

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