子どもたちを思う

祖母の詩

私には男兄弟がおりませんので、毎年子供の時に祝っていたのは三月三日の桃の節句。雛飾りを前にみんなで写真を撮る。母がつくったちらし寿司や鶏のから揚げ、そしてその日はケーキも買ってもらえる日。

三月三日の桃の節句は、祖父母も招いてパーティーです。小学校の中学年くらいまでその行事は続いていたと記憶してます。五月五日のこどもの日に盛大な何かをした記憶はありません。

「こども」と名の付く祝日でも、女の子しかいない我が家においての「こどもの日」は、単にゴールデンウイーク期間中の一日に過ぎませんでした。泊りがけでどこか旅行に行ける連休のなかの一日。父の実家に帰省するシーズン。ただそれだけです。

そんな五月五日という祝日に祖母が切ない気持ちを抱いていた事。この詩で初めて知る事になりました。

矢車草

矢車草が咲く頃になると、鯉のぼりが空高くあがっている。竿のてっぺんでからからとなっている矢車は、もっと元気よく泳げと鯉を励ましているようだ。

矢車の音が強くなると、鯉は思いきり腹をふくらませ、身をくねらして勢いよく泳ぎ出す。若い妻は子を抱き、若い夫は綱を握って見上げている。二人の心がひとつになって、上る上る、お父さん鯉、お母さん鯉、子供の鯉。

終戦後、小さい子供を三人抱えていた私の家には鯉のぼりはなかった。おくられもしなかったし、買う余裕もなかった。子どもの日は私の家を素通りしていった。殆どの家が、五月五日はそうであったのであらうか。其の後、何年か経って、鯉のぼりがぼつぼつと見られるようになったが、我が家はひどく貧しくて、鯉のぼりどころではなかった。新聞紙を切り抜いて色をぬったり、学校で作った小さな鯉を庭に立てたりした。

祝えぬ節句が何回も何回もやってきて、長男は高校生となり、下の弟たちも中学、小学生となった。「屋根より高い鯉のぼり」の思い出を持たぬ子供達だが、一度も不平を言わなかっただけに、貧しいものは貧しいなりに、何らかの方法で幼い日の思い出として残るお祝いをしてやれなかったものかと、知恵のなさが悔やまれる。

五月の陽が照り、五月の風が吹き、今年も庭に矢車草の花が咲く。

悔やむな、悔やむなと花が咲く。

孫のあとがき

朝鮮から日本へ引揚げてきた後、祖母は男の子ふたりを出産しました。長女・次女・三女・長男・次男・三男の、合計六人の子供の母親となりました。桃の節句も端午の節句も、子供達に祝いの席を作ることなくやり過ごさなければならなかった祖母の目に、私と姉のひな祭りは、はたしてどう映っていたのでしょうか…。

この「矢車草」から数十年の時が過ぎ、祖母と散歩をしていた道の途中で、悠々と青い空を泳ぐ鯉のぼりの群れを見つけた日。すでに要介護のお墨付きを自治体から頂き、屈託ない乙女に変身を遂げた祖母の口からこんな質問を受けました。

祖母:ねえねえとんとこちゃん、あの魚は食べられるの?

私 :食べられるよ。どれ食べたい?

祖母:あのいちばんおおきい黒いのがいいなあ

私 :煮つけと塩焼きだったらどっちがいい?

祖母:塩焼きがいいねえ

気持よい風に吹かれ、晴れた空に泳ぐ鯉のぼりの中から一番大きな鯉を指さし、「塩焼きで食べたい」と答えた祖母。認知症になった事で、ずうっと前から悔やんでいたその日を忘れる事が出来ていました。認知症は、子供達のために懸命に生きてきた祖母に対するご先祖様からのご褒美だったように思います。

一緒に暮らす家族からすると、祖母を認知症だと認めなけらばならなくなった瞬間は、何とも言えないやり切れなさでいっぱいでした。でも、年老いた心と身体で人生の辛さや悔いを記憶にとどめたままその生涯を終えてしまうより、屈託のない乙女のような笑顔で過ごしたほうが祖母にとってはいいことだったんだと、この詩をブログに書き起こしながらそう思いました。

以前、祖母と散歩した五月のあの日より、五月晴れの空に泳ぐ鯉のぼりの数は随分と減った気がします。ばあちゃんと鯉のぼりを「煮つけにするか塩焼きにするか」の話をした、そんな楽しい思い出にある大きな黒い鯉のぼり。今年どこかで見つけられるといいなあ。

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