幼い頃は貧乏暮らしと聞いていた
それでも辛くなかったと言っていた母
我が子らを一生懸命育てた祖母
一年に一度のこいのぼり
悔やまなくなったのは
きっと認知症になってからの
ことだろう
矢車草
矢車草が咲く頃になると、鯉のぼりが空高くあがっている。竿のてっぺんでからからとなっている矢車は、もっと元気よく泳げと鯉を励ましているようだ。
矢車の音が強くなると、鯉は思いきり腹をふくらませ、身をくねらして勢いよく泳ぎ出す。若い妻は子を抱き、若い夫は綱を握って見上げている。二人の心がひとつになって、上る上る、お父さん鯉、お母さん鯉、子供の鯉。
終戦後、小さい子供を三人抱えていた私の家には鯉のぼりはなかった。おくられもしなかったし、買う余裕もなかった。子どもの日は私の家を素通りしていった。殆どの家が、五月五日はそうであったのであらうか。其の後、何年か経って、鯉のぼりがぼつぼつと見られるようになったが、我が家はひどく貧しくて、鯉のぼりどころではなかった。新聞紙を切り抜いて色をぬったり、学校で作った小さな鯉を庭に立てたりした。
祝えぬ節句が何回も何回もやってきて、長男は高校生となり、下の弟たちも中学、小学生となった。「屋根より高い鯉のぼり」の思い出を持たぬ子供達だが、一度も不平を言わなかっただけに、貧しいものは貧しいなりに、何らかの方法で幼い日の思い出として残るお祝いをしてやれなかったものかと、知恵のなさが悔やまれる。
五月の陽が照り、五月の風が吹き、今年も庭に矢車草の花が咲く。
悔やむな、悔やむなと花が咲く。
孫のあとがき
大きな腹をふくらませ、悠々と泳ぐこいのぼりは、何処かへ泳いで消えていった。昔と変わり、もう屋根より高い空のもとで泳ぐ姿はうちの近所では見かけなくなった。すれ違う車は「我、高齢者なり」と示すステッカーが貼られた車ばかりの地域になった。
祖母が認知症になって少し経ったある日、ふたりで家の近所を散歩した。まだ家の近所にはたくさんのこいのぼりが泳いでいた5月。
てくてくと散歩をする私達からはるか遠い空に、とても大きなこいのぼりが泳いでいた。初子誕生かな?新しくて大きく、とても立派な真鯉と緋鯉。そして一番下にいる小さな青い鯉まで見えていた。近くまで行ったならば、それは更に大きく悠々と泳ぐ姿を見ることが出来ただろう。
そのこいのぼりを見つけて「わあ♪」と嬉しそうに声を上げた祖母。そして間髪入れずに聞いてきた。
ねえねえとんとこちゃん、あれはたべられる?・・と。
ばあちゃんの言う「あれ」はこいのぼりだ。きちんと魚と認識できていた。でもあれはこいのぼりなんだよなあ・・・食用じゃないのよ。
魚とわかっているならば・・と、孫の私は聞いてみた。食べるんだったらどれ食べたい?と。祖母は迷わず「いちばんうえのあれがいい!」と、おおきな真鯉を指さした。時に認知症も悪くないと思えた5月の道端。
食べるんだったら塩焼き?煮つけ?どっちにする?
大きいのは塩焼きだねぇ。その下のは煮つけがいいよ二匹とも・・と、美味しく頂く調理法を、孫に指南してくれた。今でいうところのドヤ顔で。そのばあちゃんの顔はとてもかわいらしかった。
貧乏暮らしで祝ってやれなかった昔は、長い年月を経て、ようやく認知症で流れて消えた。悲しい記憶がなくなったのなら、認知症も悪くない。祖母に限っては悪くない。
人生の終わりがけ、たくさんの苦労を手放せた祖母。ならば孫の私は認知症に恨みをもつことはよそう。たとえこの後、私のことをいの一番に忘れさせた認知症であったとしても、だ。



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