終戦の年の秋、ふとした事で二ケ月ばかりお友達になった朝鮮のおじいさん。私は、あなたのお名前も住所も薄情な事にはお顔さえ、今は思い出す事が出来ないのです。
「無事に着いたらここに手紙を下さい」と言って渡してくれた紙切れを、引揚の途中で失くしてしまった私は、遂にあなたとの約束を果たすことが出来なくなりました。
十三年という時の流れが、あなたの面影を忘却の海へ押し流しても、優しくあたたかいあなたのお心は今も消えることなく、年毎に新たな記憶となって、私の胸をかなしくゆすぶるのです。
あの家も引揚げた、明日はこの家も引揚げるそうなと、顔を合せると引揚の話ばかりです。ぽつんぽつんと、灯がつかない家がふえて、落ちつかぬ侘しい日々を重ねていた或る日の事です。
「ごめんください。いもはいりませんか」という声に玄関に出てみると、六十才近いおじいさんが、何も持たずに立っています。
「いもはほしいのですけれど・・・」と首をかしげる私に、「私はじめて仲買をします。着物といもをかえます。着物、かしてください。明日、いも持ってきます」何だか心配でしたが、その人の上品な物腰や、素朴な言葉、柔和な瞳を信頼して、私はいい着物をあずけました。
「私の家、この山の向うです。一緒にゆきましよう」そういって指さした山陰の小道は草に埋もれ、コスモスの花が美しく咲き乱れていました。
翌日、おじいさんは約束通り、いもを持ってきました。こうして、私の着物は次々に食糧に変わり、家財道具は、二束三文ではありましたが貴重なお金となって、引揚の日が近づいてきました。
そんな或る日、「私、貴女のお陰で、少しばかり儲けました。心ばかりですが元気をつけて内地へ帰ってください」と言って、五百匁はあらうかと思われる牛肉のかたまりをぶらさげて来て、最後の掃除をしてくれました。風のない日でした。
ゴミを焼く煙は庭いっぱいに拡がり、白い朝鮮服のおじいさんは、しきりに目をこすっていた。「けむたいでしょう。少し休んだら・・・」私の声に振返ったおじいさんの目に、涙がたまっているのを見て、何だか胸がいっぱいになりました。
「奥さん、帰える時、どんなにして子供さん達つれてゆく?私に委せなさい」
「有難う。お願いします」
七才を頭に、四人の子供を連れて山を越えて四キロ以上歩くのは、思うだけでも大変なことです。私は心の中で手を合わせました。
愈々引揚の朝がきました。おじいさんが荷車をひいてやってきたのです。その時のうれしかったこと。一抹の不安はありましたが、身動きも出来ない程着せられた四人の子供と、超特大のリュックを乗せて、主人とわたしが後を押しました。荷車の上で、子供たちはうたを歌って大喜びです。
霧が深い肌寒い朝でしたので、おじいさんのわらじの素足はうす赤く、冷たそうでした。赤い素足とかじかんだしわだらけの手が、私には尊いものに思われました。
峠にさしかかると、これから待っているであらう苦労もふっとんで、私は思はず聲をあげました。
「まあ素的、素晴らしい!!」
霧の中に明けそめてゆく漢江の流れと鉄橋。濃く、淡く、山ひだをよせて、ひっそりと静まりかえっている遠い山々。それは一幅のすみ絵でした。おじいさんも汗を拭き乍ら見とれています。再び見る事が出来ない朝鮮の山や川に名残を惜しみ、駅へ向かいました。駅は引揚者の群れでごった返していました。
「出発迄、あと二時間ばかりあります。どうぞお帰りになって下さい」そう言ってもおじいさんはうなずくだけで、人波にもまれ、駅の片隅でじっと私達を見送っていました。発車のベルが鳴りひびくと、列車は徐々に動き出し、おじいさんの姿は見えなくなりました。「きっとお便り差し上げます」と、心に誓いました。
朝鮮のおじいさん、お元気でいらっしゃいますか?
あの頃、二十九才だった私は、何時のまにか白髪が目立つ年になりました。ひょっとしたら、あなたはあのコスモス花咲く山の土になって、静かにねむっていらっしゃるかも知れません。あなたの荷車に乗ってうたを歌った子供達は、みんな大きくなりました。今日は、海は、ひどい雪です。この海があなたの村につづいているのです。
今一度、お逢いすることが出来たら・・・と、今日も遠いおじいさんを思い出しているのです。
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