小さい頃、私は豆という豆が大嫌いだった。今は豆類全般大好きな中年に仕上がっているが、それでも30代くらいまで、金時豆だけは何となく避けていた。
祖母は頻繁に金時豆を煮ていた。たぶん大好きだったのだろう。それと歯のない自分への大事な栄養分として、やわらかな豆を煮ていたのだろう。
金時豆を美味しいと感じられるようになった時、祖母はもうこの世にいなかった。この「桃の花」という詩をみつけて、ああ嫌いでも一度食べておけばよかったなあと、少しの後悔が浮かんだ。
母が煮た金時豆も口にすることはなかった。一度、社交辞令的に口に含んでみたけれど、なんだかぼってりとしてヘンに大きく、もそもそとした感じの印象で口にしたくなかった。美味しくないわけではなかったが、食感が嫌で食べ進められない金時豆。
今はもう食べることのできない祖母と母の金時豆。そして自己流で作ることも叶わない。豆を水で戻して煮るという作業は、今の私にはとてもじゃないけどできない。
家の片付け、父の世話。できない事が積み重なり、日々進めど、後ろ振り返れば終わらせられなかった毎日が山積みになって朽ちている。
もう過去に戻ることはできない。私は自分の未来に元気が戻ることを期待して、金時豆を炊ける日が来るのを楽しみに毎日生きる。そして祖母が幼いころに頬張った、薄桃色の金時豆のおにぎりを作って仏前にお供えしたいと夢をみる。
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