父、90歳で「Yeah!」と叫んだ日に終わる人生、はじまる毎日

介護日誌

父は、誰にも気付かれずにスルリとアルツハイマー型認知症になってしまった。

物忘れが増えてきたなぁ。何度も同じ事を尋ねるようになったなぁ。そういう事は数年前からそれなりにあった。だけど私達親子3人は、以前同様普通に暮らしていた。

それでわが家に何か支障があったか?いいえ、ありませんでした。それが父の異変に見えたか?いいえ、そこには依然と何ら変わりのない父がいました。

と、思っていた。

車の運転をやめさせた。月に1度の通院に付き添うようになった。それでもまだ私達親子3人の生活は、特段かわりなく続いていた。

車の運転をやめさせたのも、月に1度の通院に付き添うようになったのも、すべては年のせい。認知症のせいでは決してなかった。

年寄りだからさ。だって90代のほうが近くなってきてるんだもん。父から時折放たれる「大規模でない物忘れ」や、「数回程度の行ったり来たりのクエスチョン」は、想定内の年相応からくる言動や行動だ。

と、思っていた。

今の時点から後ろを振り返ったら、飲み残した薬が大量に出てきた時点で認知症を疑うべきだったのかもしれない。でもここで疑う事をしなくてよかった。「認知症外来に連れていったほうがいいかも」と、考えつかなくて本当によかった。

そのおかげで、自分の夫が認知症になったという事を知らずに、母はこの世を去る事が出来た。かなり前からアルツハイマー型認知症を発症していたと思われる父。だけど、私も母もその事に気が付いていなかった。よかった。

父が認知症になっていると気がついた日

父が認知症である事を確信したのは、母がターミナルケアを施される病室に移された時だった。「90歳になりましたっ!まだまだ全然げんきでっす!」と、父が「我、90代に突入したなりYeah!」ムーブを、部屋に入ってきた看護師に突然ぶちかましたのだ。

未知なる父との遭遇を果たした。生涯における一大決心で、母の手を離す覚悟をしなくちゃならないその病室で、私は父が「完全な認知症患者」になった瞬間を横目で確認した。

それは母が亡くなる3日前の事だった。

看護師もターミナルケアの病室に移された患者の夫から、まさかそんなムーブ的な挨拶をかまされるなんて夢にも思わなかっただろう。だから、そんなまさかの担当患者の夫からの挨拶に、自分が看護師だという事を忘れたかのような「エッ?」という声を発した。

父は、母が入院する少し前から総合事業なるサービスを利用し、近所のパワーリハビリ施設に通い始めたところだった。毎週1回、色んな角度から褒めちぎられる(本人曰く)時間を味わう日々が始まった父は、看護師のユニフォームが施設の職員と同じ意味を持つ人だと認識してしまったと思われる。

「元気な90歳がここにいまぁす!」と自分の年齢を伝えれば、必ず褒めてくれる人に見えてしまったのだろう。だが残念なことに、父がロックオンしたその人は「エッ?」と怪訝な一言を発したのみで、その後に続く社交辞令的な、父を褒めちぎるような言葉を返す事はしなかった。

看護師は華麗にスルーした。父の褒められたいという願望は、無機質なターミナルケアを施す病室では粉微塵だった。

でも父のひと言に私は救われた。母の最期の時に父が認知症になってくれていてよかった。

入院していた祖父の最期を思い出した。祖父がもうどうしても息を吸い込む事が出来なくなったその時に、「お腹が空いちゃったぁ」「この赤いのはなあに?これスパゲッティっていうの?」と、祖父が横たわるベッドの側で、もぐもぐと無邪気に弁当を食べていた祖母の姿と父が重なった。

その時と同じ感触の「ホッとした気持ち」を手に入れた。母がこの世からいなくなる事を父が真正面から受け止めずに済んだ事。認知症という緩衝材が父を包んでくれた事。私はとても嬉しかった。認知症を「嬉しい」と思えたのはこの瞬間だけだったけど、本当に私はその時胸をなでおろした。

認知症になった親を手放しで喜ぶのはおかしいが、父が認知症になっているとわかった瞬間は、これから先を何としてでも踏ん張るぞと覚悟した私への、ちょっとした先渡しのご褒美に思えた。

そして父が認知症になった事を知らずに、母がこの世を去る事が出来てよかった。父が看護師に「90歳になりましたっ!まだまだ全然げんきでっす!」とぶちかました時、母は私達の元を離れる準備をしていた。父のYeah!を聞くほどの体力はもうなかった。

その「認知症になった父」と「夫が認知症になった事を知らずに旅立った母」が、右と左でピタリと娘を支えてくれた。だから私はいまを何とか凌いでいる。

単なる思い込みかもしれないし、都合よく解釈しようとしているだけかもしれないが、私を取り巻く世の中は、とりあえず何とかギリギリ上手く回っている。

そうでも思わないと、母があの世へ行って以後、目が覚めた瞬間から始まる「毎日が生まれて初めて」の日々を受け入れる事が出来ない。

父がアルツハイマー型認知症と確定した日

父が「頭が痛い」と言い出した。母親が鬼籍に入ってから約半年後のある日の事だ。この頃の私は毎日を乗り切るのに必死(今もそれは続いてるけど)で、まだ突発的な何かに対応できる体力は皆無に近かった。

しかし「頭が痛い」と聞かされれば、ない馬力も出る。脳神経外科に父を連れて行った。痛みは単なる加齢に伴う頚椎症だった。でも「せっかく来たんだからCT撮っていこうか」と誘われ、2025年6月16日に、当時90歳の父の脳みそ詳細ジャストナウを知る事になる。

この日をもって、私の父がアルツハイマー型認知症である事が判明した。決して初期段階のアルツハイマー型認知症ではない、わりとガッツリした感じのアルツハイマー型認知症になっていると告げられた。

2025年6月16日(月)

この日から、アルツハイマー型認知症の父親とふたり暮らしになる娘の人生が公にスタートした。何となくでもなく、娘の肌感覚でもなく、近隣の脳神経外科医からキチンと太鼓判を押された認知症の父が降臨した。

父のアルツハイマー型認知症の人生が始まる

父は「認知症」がなんであるか知っているが、「アルツハイマー」という言葉は知らない。それは父の現役時代の脳の知識と経験が「アルツハイマー」という言葉に触れなかったからだ。

医師から「ガッツリしたアルツハイマー型認知症ですよ」と告げられた時、「認知症ですかぁ・・はぁぁ・・」みたいな感じで若干ネガティブな反応を示していたが、帰る途中で

父

おとうさん、またほめられちゃったぁ♪やっぱりこんな元気な90さいってめずらしいのかな。病院で太鼓判押されたからこれなら100さいまでいけるんじゃなぁい?(やっほい♪)

と、キャッキャしながら車に揺られていた。10分前にアルツハイマー型認知症と言われたことは忘れていた。キャッキャしながら「お腹がすいたー!」と叫んでいた。

診察してくれた医師は、今の程度を観察するために父と世間話をした。その中で「若い頃、何かスポーツしてたんですか?バレーボールですかそうですか」「グラウンド・ゴルフもしてたんですね、だから体格がしっかりしている」「食べ物の好き嫌いがないのはとてもいいことだ」などなど、にこやかに父と話しをしてくれた。

CT画像で医学的に診る脳と、父と会話して得た感想(診断)が乖離していると言われた。ちゃんと言葉のキャッチボールができていると言う。脳の萎縮に見合っていない受け答えができているらしい。

先生が「凄い」やら「素晴らしい」を父に投げ掛けたので、またここでも盛大に褒められたと受け取った父。

帰宅して「頭痛いのは?どうなった?」と聞くと

父

ぜんぜんいたくなぁい♪

と、ウキウキした返事が返ってきた。念のために処方された鎮痛剤を、その日と次の日飲ませてみた。「病気じゃないからもう飲まない」と、翌々日は拒否された。

5日間処方された薬は3日分残ったまま。今も引き出しの中でスタンバイしている。父がまた「頭が痛い」というかもしれないその日のためにと取ってはいるが、たぶん使うことはないだろう。

アルツハイマー型認知症の娘としての暮らしが始まる

父は、母が亡くなる3日前、ターミナルケアを施す病室で「Yeah!」とも叫んだが、「○○(母の名前)ちゃーん!来ましたよー!○○さん(自分の名前)が会いに来たよー!」とも叫んだ。父が母に名前で(しかもちゃん付けで)呼びかける場面に遭遇したのは、たぶん生まれて初めてだ。

ずっと呼びかけてみたかったのだろう。母の事は「おかあさん」とか「あんた」としか呼びかけなかった、父のアルツハイマー型認知症以前の人生。認知症というやつのお陰で、父の胸の内が私に聞こえた。

照れや習慣、世代的な価値観やら、いろんな背景があったんだろうが、母の最期のほんのひと時に、「認知症」という病のおかげで心を解放できた父。弱々しくなった鼓動で踏ん張っていた母に、その呼びかけが届いたかどうかはわからない。

でも、言いたかった事を言えた父がいた。生きている母に面と向かって言えた父がいた。それが嬉しくてたまらなかった。

その日から、父の続柄は「父」ではなく「認知症の父」となった。あのターミナルケアの病室で「90歳になりましたっ!まだまだ全然げんきでっす!」と放たれた声から約半年後、私は「アルツハイマー型認知症の父」の娘となった。

生れて初めての毎日を“よいしょこらどっこいしょ”と言いながら、父とふたりで年を取る。そんな人生になりました。

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