生命に直結する「食べる」という事。みなさまは「食べる」という事をどう考えいるだろうか。「食べる」という行為は一体いくつの部品から出来ているのだろう。祖母が認知症になり、その祖母の食事担当になった私は、歯のない祖母の「食べる」という事をいろんな角度から考察するようになった。
祖母が認知症になり、彼女の衣食住にまつわる色んな事で、ちょいちょい壁から激突されるようになった。私達が向かうその先に壁が出現するのではなくて壁の方から向かってくるのだ。ある日突然、予告なしに壁がドーンとぶち当たってくるのだ。
そのドーンとぶち当たってくる壁の中でも、うーむと頭を抱える事が多かった衣食住の「食」の部分。健康や命にダイレクトにかかわってくる「食べる」という事。なかなか難儀なやつだった。
「食べる」という事を分解してみる

私達の「食べる」は楽しい。食べたいものを自分の意思で選び、その食材の香りや色や美味しそうな出来上がり具合を見て、口いっぱいに頬張り味を堪能する。よく噛んで食べる人、早食いしがちな人、おしゃべりしながら食べるのが好きな人、ただただ自分の体力維持のためにと使命感で食べる人…。
そんな「食べる」という部分を分解した時、私の中で「食べる」は4つの工程から出来ているという結果が出た。
- 料理を目視確認する
- 口に入れる量を箸(もしくは手)でつまむ
- 飲み込める程度に咀嚼する
- 飲み込む
アツアツの出来立て料理が来ようとも、歯が折れそうな硬いかりんとうをお土産にもらったとしても、上記4つの工程をこなせば、たいていの人は胃袋に収めることが出来る。「食べる」が「ああ美味しい」に変わる瞬間だ。
でもちょっと待った
「食べる」というその行為。「ああ美味しい」にたどり着くまでのその道程。本当に工程4つで済むのだろうか…
ずいぶん省略してイメージしている私達の「食べる」
例えば現在54才の私。4才から「食べる」を始めたたとして、50年もの間「食べる」事を色んな献立で鍛錬している。「食べる」事が1日に3度(朝ごはん・昼ごはん・晩ごはん)あったとし、さらに追加でおやつ等々の「食べる」事を追加すると、私は今現在で約54,000回以上の「食べる」学習や経験を積んでいるという事になる(たぶん)
「食べる」事に限らず、なんでも体験回数こなして経験値アップすれば、生活するための行動(椅子から立ち上がるとか頭を洗うとか)は、特段意識しなくてもドンドンできるようになるのだ。そう、それは成長だ。そして「食べる」事も例外ではなく、脳にしっかりとその経験が蓄積され、ざっくりした【1.目視確認⇒2.箸でつまむ⇒3.噛む⇒4.飲み込む】の4工程だけのイメージでも、日々の「食べる」は難なくやりこなせるようになる。
「食べる」の省略した部分を並べてみる
では「食べる」の正体って?いえいえ正体はわかっています。4工程にざっくりわけた「食べる」で正解。ざっくりした【1.目視確認⇒2.箸でつまむ⇒3.噛む⇒4.飲み込む】を繰り返し、ゴールである「ああ美味しかった、ごちそうさま」にたどり着くのです。
だがしかし、認知症患者と暮らすと決めたなら、本来の「食べる」事がどういう工程で成り立っているかを再認識しておかないと、とんでもない事に遭遇する羽目になるという事にも気が付いた。
料理を目視確認する
- 自分の前に並べられている料理を確認
- 並べられた料理を全部食べることが出来るか考察
- どんな味がするかを想像
- 温かい料理なのか冷たい料理なのかを判別
- 硬い食材なのか柔らかい食材なのかを見極める
- 美味しいと思えそうか否かの検討
口に入れる量を箸(もしくは手)でつまむ
- どの料理から食べ始めるか決める
- 利き手で箸(もしくはスプーンなど)を持つ
- 別の手で茶碗を持つ
- 料理を箸(もしくはスプーンなど)で適量取る
- 料理や料理の汁等が服やテーブルに落ちないように注意する
- 口の中に入れられない様な高温であれば息を吹きかけてある程度冷ます
飲み込める程度に咀嚼する
- 口に入れた瞬間に五味(甘味・塩味・酸味・苦味・うま味)を判断する
- 五味に合わせてむせないように喉の筋肉を調節する
- 素材によって咀嚼回数を考慮する
- 口腔内に口内炎などの疾患がある場合はできるだけ患部に当たらないよう注意する
- 咳やクシャミなどの万が一の事態も考えながら噛む
- 舌やほほの内側を誤って噛まないように注意を払う
飲み込む
- 現状の咀嚼具合で飲み込んでものどに詰まらせないか検討する
- 舌や喉周りの筋肉を連携させ飲み込むタイミングを計る
- 粒状のものと液状のものは喉を通っていくスピードが違うので注意する
- 飲み込む時は横を向いたり喋ったりせずに集中する
- 咳やクシャミが出そうな時は飲み込むのを保留にする
- 飲み込む時に誤嚥せずに食道を通過できると判断したタイミングで飲み込む
認知症患者であろうがなかろうが、私はこれがすべての人の「食べる」事なんだと、認知症になった祖母と食事する時に感じた。「食べる」は楽しい。でも怖い。特に祖母は「食べる」という意識が薄くなった認知症だ。
一歩間違うと「ああ恐ろしや」の瞬間がやって来る。
私達の「食べる」ならひと口約30秒
ひとつの工程に6つの部品。合計24個の部品で「食べる」は出来ている(私見です)
たとえばその日の晩ごはんがハンバーグだったとして。「いただきます」を言ってから箸でハンバーグを一口サイズに切り、モグモグと約20回程度咀嚼して胃に落とし込む。これが約30秒。人によってはもっと早いかもしれないし、もう少し時間を費やすかもしれない。「食べる」スピードにかかる時間が前後するのは構いません。ここは個人差。美味しい食事を思う存分楽しんで下さい。
今回の考えるべき点は認知症を患ってしまった人の「食べる」を構成する24個の部品が欠けてしまった場合、さあどうするかという事だ。
この「食べる」を形成する24個の部品がひとつふたつ…とどんどん欠けてしまうと、認知症患者は大変どころか命にかかわる事に発展する場合が出てくる。
私の祖母も「食べる」の部品を失ったり、失わないまでも一部劣化したりと、食事中に何度か大変な目に合った。それでも、対応策や部品の代替品を持っていれば、認知機能が低下しても「食べる」を何とかやりこなすことが出来るのだ。
認知症患者の「食べる」は虫食い状態

認知機能が低下していなければ、日々の「食べる」は美味しいことこの上ない。巷で流行りの食べ物でも飲み物でも、なんだって食することが可能だ。ハンバーガーだってガブリと食べられるわけですよ。私の母(御年86才、まだ認知機能は低下してない)も、たまにてりやきバーガーを食べたいと言ってくる。
しかし、このブログでフォーカスすべきは認知症患者の「食べる」
記憶力も低下し、注意力や集中力も低下し、理解力も行動力もどんどん乏しくなっていく家族の「食べる」なのである。
「食べる」の虫食い部分を放っておくと
部品が欠ければ、当然のことながら不具合が生じる。記憶・注意力・集中力・理解力・行動力。人によって、部品が欠けたり劣化したりする部分は異なるだろうけど
- むせる
- 喉に詰める
- 誤嚥する
- いつまでたってもごはんを飲み込まない
- いつまでたってもおかずを口に入れない
- 食べ始めない
- 食べ終わらない
部品が欠けて「食べる」の記憶に虫食いが生じてくると、認知症患者の食事はスムーズには始まらず、平和に終わらなくなってくる。
私の祖母は「むせる事」や「喉に詰める」事がなんなのか理解できなくなり、むせたり詰めたりしながら「なんで苦しいのか」「なんでこんな風になったのか」「いま自分に何が起こっているのか」「迷惑をかけてごめんなさい」というような事を、チアノーゼ状態になりながら毎回私に聞いたり言ったりしていた。
チアノーゼ状態になった時はこっちもパニックだ。「食べる」のたびにチアノーゼ状態になるのは本人も家族もそれはとても辛い事で・・・
認知症患者の虫食い部分は防げる
認知症の家族がなるだけ辛い目に合わないよう、その虫食い部分をうまくふさいであげる事が私達介護者の役目だ。100%カバーできるとは言い切れないけど、大切な食事を辛いものにしないサポートのやり方は必ず見つかると私は思っている。
在宅介護においてはすべての場面で大変な事ばかりだ。残念ながら「食べる」事だけに神経集中出来ないのが在宅介護の現実だけど、まず「食べる」事が楽しくないと他の日常も成り立たない。「食べる」の各工程を色んなアイデアひねり出して、虫食い部分をふさいでいくのだ。

「食べる」は続くよどこまでも
これから在宅介護を始めようとしているみなさん。食べさせる側にいるのは大変ですが、食べ物の力は偉大です。できるだけ長く、本人の裁量で食事ができるようサポートしてあげてください。栄養不足や空腹は、介護される側もする側も体力の低下や気力の低下を招きます。
介護される側が楽しく穏やかに「食べる」事を続けられること。それはまわりまわって介護する立場のアナタの負担軽減にもつながっていくのです。
私はいま、口腔扁平苔癬を患っている母の毎日の献立に右往左往している。祖母の在宅介護の経験が役に立ち、何とか頑張って暮らす事が出来ている。
食べるは続くよどこまでも。それは私にとっても誰にとっても続く事。楽しく食べる。頑張って食べる。
そして力を蓄えて生きていく。
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