桃のつぼみがふくらむ頃

祖母の詩

母は今年六十五才になる。毎年桃のつぼみがふくらむ頃になると、きまって母からアラレの小包が届く。前後して便りも来る。

いくえにも重ねてむすんだひもには、母の手のにおいがしみこんでいるようで、ハサミでチョキンと切ってしまうのがためらわれる。

去年には、赤、白、黄、みどりのアラレだったが今年は紅白だ。几帳面な母の性格そのままに、定規ではかったように正確に切られている。

電燈をひくくして、私や孫の喜ぶさまを思い乍ら、手に豆をこさえて切ったのであらう。その一粒一粒に、母の愛情を感じる。

「桃色は、桃の花。白は、梅の花。四角だけど、いると丸くふくらむのよ」と私が言えば、「ばあちゃんの味がするよ、きっと」「大切に少しずつ食べようね」「早速礼状を出さなくちゃ」としばらくは口口に騒々しい。

小包の中には、アラレのほか、氷砂糖、ふりかけ粉、豆の種子、夕顔の種子。珍しくお札と御供米が加えてあった。いわしの頭も信心から・・と昔の人がいっている。信じなければ唯の紙と唯の米にすぎない。不信心な私であるが、このおふだと御供米は理屈を言わずに信じたい。

米粒を手のひらに乗せて一粒一粒かんでみた。私が胸をわずらってからは、毎年元旦には、母は三社参りかかした事がないそうだ。今年は特別にお札をいただいて、拝殿にぬかづいたのであろう。

母の手紙を何回も読んでみる。百人一首のように濁点なしの文章は、よくかみしめて読まないと判らなくなってしまう。小学校二、三年しかゆかなかった母だけれど、非常に頭がよかったそうで、ひらがなに混ざって漢字もある。自転車が「りてんしゃ」、道路が「ろうど」、体が「かだら」となっていても誰も笑うまい。こんな手紙が私にとっては一番うれしい。

たまに「拝啓」とか「前略ごめん」等々と達筆で書いてあると、病気でもしているのじゃないかとどきっとしてしまう。

迷信を笑う私も、昨夜の夢みが悪かったとか、いやにカラスが鳴くとか、犬の遠吠えが気になるとか言って、妙に気になるのだ。

どんなに読みにくくても、母自身が書いたクイズのようにむつかしい便りを私は待っている。

来年も再来年も、もっともっと長く香ばしいアラレを送ってほしい。

そして便りも書いてほしい。

  

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