吐き出そう。私なりのデトックス。コソコソと身バレしないようにブログに書くのは情けないが、どこかで発散しないと私が私でなくなりそうで。
状況のわかる人達に意地悪がごとき拡散したいわけではないので、だとするとブログ(匿名)は発散場所として最適で最強。私の気持ちを立て直すために、恥も外聞もなく書いておこう。
そして書き終えたら新しくて曲がらない道を進む。穏やかで平凡な毎日を見つけながら生きて行こうと思う。
私は物心ついた時から姉の事が嫌だった。姉の事がとても嫌だった。私の世界に入ってきてほしくない人。それが姉だった。血が繋がっているので大げさに邪険にはできない。嫌だったけれど、だからといっていじめるとか無視するとか、そういう事をしたかったわけでもない。
ただただ私の陣地に入ってきてほしくなかった。それだけ。
それなりに仲が良かった瞬間もあったけれど、一緒に暮らしていた時間の内訳を振返った時、ほぼその姉の行動や考えを嫌だと思う時間が大半を占めていたように思う。
私から見た姉は気が弱く(それを優しいと表現できる場合もあるのだが)、長女としての自覚がないのに長女になりたがる。そんな人だった。加害者なのに、いつのまにか被害者になる。そんな人だった。いつもどこかの人や私をうらやましがるけど、そうなりたいと思う気持ちは他力本願。なにも叶わないと「どうせ私は・・・」「いつもとんとこばっかり・・・」と言っていじける人だった。
妹の私は姉からすると要領がよく、周りの事を気にしない(思いやらない)妹だと感じていたのだろうと察する。大雑把、マイペース、恥ずかしがらない、単独行動(自分勝手)をやらかす。姉が私の事をよそ様に対して恥じる部分であるが、と同時に自分もやってみたいと憧れている部分だ。
こんな感じの姉と妹だ。互いの性格が右と左で両極端に離れて違い過ぎるので、姉と関わる時間は私からすると居心地が悪かった。それは物心ついた時から。そして姉が嫁ぐその日まで続いた。
ハッシュタグが存在しない昭和の時代に
#姉妹コーデ
#姉妹旅行
#姉妹でランチ
などなどをしたかった人だ。仲良し姉妹の同級生が至極羨ましかった姉だ。妹という生き物は「お姉ちゃんと仲良しになる生き物だよね・なるはずだよね?」と思って疑わなかった姉は、私にもそれが「普通」だと押し付けてきた時期があった。でも直接言えない気の弱さから、それ(同級生の姉妹仲良し話)を聞こえよがしに私の目を見ずに襖に向かって叫んだり、母に泣きついて仲良しごっこをするよう妹に頼んでくれと言っていた。
母から頼まれると妹である私は拒めない。母は中立だったので、姉の気持ちを成就する事に手助けするけど、私のひとりになりたいという気持ちも理解してくれた。私は母からの仲良し依頼以外はすべて拒否した。嫌だと思っている姉と時間や物を共有したくなかったし、なによりひとりで行動するのが好きだったからだ。姉とふたりで行動したり物事を共有するのは不可能に近かった。
そんな幼少時代から数十年たったのち、この姉妹の母親に介護が必要となる日が訪れた。両親と同居しているのは妹のほうだ。姉は妹の依頼と指示で実家のアレコレをサポートする立場だ。めんどくさい立ち位置での介護が始まった。
食事の介助も排泄の介助も、すべて「母の日おめでとう」的な思考でやろうとする姉。介助を「がんばれがんばれおかーさん!」と言えば成り立つと思っている姉。私が姉の行動をいったん静止すると「全力で拒否された」ととらえる姉。
私介護するの初めてだからと言う
在宅介護はネットで見て知ってると言う
「友達は」「普通は」と言い続ける
無理せずに暮らせと言い放って帰る
父の事はしたくないと仕事を選ぶ
私に休めと言いながら自分が休む
葬儀で私の通帳一冊解約した旨告げたら
静かに何処かへ消えて行った
怒りは沈静化させればとりあえず元に戻るけど、呆れた先には引き戻る道がない。上記に記したこと以外にもたくさんの呆れが溜りにたまって、私は次女だけどひとりっ子になる事を決意した。
数十年ぶりに姉と寝食共に(それは数日間単位のくり返しだけど)し始めたら、子供の頃の切なく悲しい出来事が何度かよみがえり泣いた。いわゆるフラッシュバックというやつだ。母の人生が終わってしまうかもしれないという恐怖時間に腹をくくって挑み、父の生活を疎かにしないよう何とか歯を食いしばっていた私に、思ってもみなかった地獄が到来した。
もういいかな・・姉を姉として扱わなくていいかな・・・他人と思い込んでいいかな・・・・・そう思う気持ちが日に日に強くなると、姉と目を合わせることが出来なくなった。こうやってどんどんと私が姉との間の溝を深く掘り込んだある日、母がこの世を去った。
それでもずーっと姉は子供のまま。看取りも通夜も葬儀も納骨の日も、ずっと子供のままで母を見送った。私は姉との間に掘った溝を拡張して気持ちを遮断した。
もうすぐ母の一周忌だ。姉はお茶を飲みお菓子をついばみながら、在りし日の母の思い出を妹とほっこり語り合いたがっていると想像できるが、私はマイナスになっている日々の暮らしの立て直しとアルツハイマーになった父の日常を守る事、そしてBMIが15を下回ろうとしている自分の身体を何とか15以上に持ち込みたいと歯を食いしばるのに必死なので、姉の「察して!!お姉ちゃんの気持ち!!仲良し姉妹する事がおかあさんの遺言と思う!!」が疎ましいのである。
納骨の日を境に、ぷつんと姉との連絡をやめてみた。さんざん世話になっておいてそのような仕打ちをするのも大人げないが、もう残り少ない人生と力のない身体で姉を「長女」として祭り上げるのはもうやめにする事にした。
この先、私にはいい事なんてないだろう。母の元へも行けないだろう。人に優しくもなければ、徳を積み上げているニンゲンだとも思えないからだ。だけど行った事のない地獄がどんな所だろうと恐ろしがるより、今生きている時間と身体を大切にするほうがマシだと悟った。
地獄の事は地獄に落ちたその時に考える。これでいいのだ。
これだけ血の繋がった姉の事を疎ましく思ったら、宝くじに当たる運もなくなるんだろうなあとそこはちょっと不安になるが、この先は出来るだけ穏やかに暮らしていきたい。
自称でも一人っ子として生きていく。そう決めた2025年。すこしだけ身も心も軽くなった気がする。実際は疲労感以上の何かが纏わりつき、毎日起きるのもやっとの身体なんだけど・・。
そんな私と暮らしている父は、100歳目指すと張り切っている。私はそれに付き合いたい。そして宝くじにも当たりたい。心の濁ったニンゲンだけど、何か一つだけいい事が私に訪れてくれるのであるならば、どうか宝くじを当ててください。まあ相当無理があるけど思うのは自由だ。誰にも迷惑はかけない望みなのでよいだろう。
さあこれだけ書いたから気がすんだか?私。いや全然済まないな。でもとりあえずは落ち着いた。いつかまた辛くなって進む道が曲がりくねったその時はコソコソと姉の事を書いてみようと思うが、できれば父との楽しい日々と一緒に暮らした大好きな家族の話しでこのブログは埋め尽くしたい。
あくまでもできれば、の話し。次女の怒りと呆れは相当根深いぞぉ。
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